卑屈な慰め方法の変更

全身筋肉痛でバキバキの体を抱えて仕事に行く。槍ヶ岳へ登ったのは会社の人には内緒である。筋肉痛でヨタヨタ歩きしか出来ないが、無理してフツーに歩く。どうしたんですか?と聞かれたら、ちょっと槍ヶ岳登ってね、ってちょっと近所のコンビニ行くような何でもない事のようにドヤァ、と自慢しない自信が無い。そういう事で筋肉痛で悲鳴をあげている体にムチ打って努めてフツーの歩き方をするのも、人にどうしたんですか?と聞かれない為の自意識過剰過ぎる努力で、自分で笑えてしまう。

 

最近仕事が死ぬほど面白くない。以前の課は大変ではあったが自分のしたいように出来たが、今回の課は専務から並々ならぬ期待を寄せられているだけ、部長や副部長がピリピリしており、何をするのも私からみたらビグビクしているのである。何をそんなに恐れるのであろう。失敗しても何度でもチャレンジすれば良い、と考えている自分に対し、失敗したら上から叱られると思ってビクビクしている部長とかと私がソリが合わなさすぎるのである。

 

大体期待している仕事に対し、課ではなく係となっているし、2名だけっていう采配がもう上が無能過ぎて笑える。期待するなら係ではなく課として新設して少なくとも5人以上は課員をおくべきである。それでうまく出来なくても当たり前なのだから、そんなにピリピリしなくていいよ、部長、副部長。所詮失敗しても降格するくらいでしょ?私も出世できないくらいでしょ?殺される訳でもないし、何をそんなにたかだか専務という名のお猿を恐れるか、私には皆目分からないのである。そういう所が人間社会に向いていないかもしれぬ。

 

専務だろうが社長だろうが大富豪であろうが貧乏人だろうが高貴な人であろうが、ホモ・サピエンスからは抜け出せないのである。でも人間は人間をやめたいというか生物をやめたい人がいっぱいいるよね。

 

私にとっては毛穴ひとつシミひとつない肌に加工し、トカゲみたいにデカい目にして、汗なんてかかないドールのような痩せ過ぎた女の子に憧れたり、そうなりたいと整形をする子達は、この子達は人形になりたいんだなあ、と思ったり、いずれ自分の記憶を外部の記憶媒体にコピーして死なない体にしたい研究もあるにはあるようだから、人は人を超えた存在にいつまでも憧れるものであるのだな。攻殻機動隊の設定はマジでそこまで来ていると思える。いつか本当に人間は何か別の生き物に変わっていくかもな。

 

そうなった存在に所詮猿だから恐れるなって思えるかな。でも結局思えちゃうな。所詮思考する何かである。槍ヶ岳の頂上から足を踏み外せば、余程の幸運が無ければ破壊される存在である事を考えるととても平等な世界である。

 

そういえば最近見たアニメで、私が思っていた疑問そのままを疑問として扱っているアニメがあった。同じ記憶を持った存在は同じものであるのか?自分の記憶のコピーを持ったモノは私になるのか?と思って、それはでも不滅とはやっぱり何か違うんじゃね?と思っていた。やっぱり違うよね。私の記憶を持った別の何かが生まれるだけで、私は私の体が終わる時に一緒に終わるよな。残念ながら。

 

始皇帝のお墓やエジプトのミイラもそうだけど、人間は大昔から不滅や復活を形は変えれど追い求める。それは生物である事を放棄する事だよな。そんな事出来るわけない、って笑っていられたけど、もうそう遠くないみらいにその時が来るよな。そうなったら私のような持たざるモノは、ふん、所詮猿が、って自分の心を慰める事も出来ぬではないか。

 

その為にはみんな槍ヶ岳登るべきである。ふん。所詮足を踏み外したら、みんな破壊される何かじゃねえか、鳥以外は皆空すら飛べねえ!けっ!って思える。