ジジのぬくもり

金曜日は仕事で多くの人間に会い、気を使ったし、土曜日は久しぶりに友達と会って色々な話をしたが、結構深刻な話も聞いたので、本日は心が疲れてグッタリしている。晴れていれば裏山に行って鳥や緑に癒されればすぐに快復するものを、生憎の梅雨空でそれもままならない。

 

そういう事で、実家が最近黒い子猫を拾って飼う事になったので、黒猫に癒されようではないかと見に行った。名前はジジ。な、なんと愛らしい!!猫じゃらしでたっぷり遊んでそれから撫で回すとゴロゴロ鳴く。たまらん。実家では昔、犬とうさぎと鳥を飼っていたが猫は初めてである。

 

昔子猫を拾って飼いたい、と言ったが許されず、そのうち近所の人が子猫を保健所へ連れて行くことになって、泣いてその車を追いかけた記憶が蘇って涙がちょもれる。やっと子猫を手に入れたぞい、と思って何度も撫で回す。黒猫が2匹捨てられている、と実家から聞いても、私の家では愛鳥がいるので、猫のエサになってしまう未来が予想出来て飼えないと思い、見捨てるしかあるまい、と腹は括ったが夜寝る時になると、不甲斐なくて泣いておったが、実家の面々が飼ってくれる事になってホッとしている。

 

ただ、3匹いたようで1匹は既に死んでおり、もう1匹も居なくなっていたようで、ジジだけ拾ってきたのだ。

 

こんな可愛いものを平気で捨てられる人がおるのであるな。言っちゃなんだが捨てるくらいなら里親とか探せよ。

 

昔父が高校生の時に寮に住んでおり、同じように猫が捨てられているのを友達と眺めていたら、近くを通りかかった同級生が、ああ、猫か、と呟いたと思ったらあっという間に掴んで壁に投げつけ3匹とも殺してしまった事があり、父は茫然としてしまった事があったと話してくれた。世の中には命など野球のボールくらいのおもちゃみたいな感覚の人がいるということだ。

 

そういう人もいる、という事だ。そういう人、人や命への共感性がゼロの人がいる、という社会は、自覚しているが私のように異常に共感性の高い人間にはなかなか心のエネルギーが費やされる事である。しかし私も共感性をゼロにしている事は山ほどある。そうしなければ当面の暮らしが成り立たないほど心が疲弊するからな。共感しすぎてもしなさ過ぎてもダメなのであろな。

 

でもジジの温もりを感じていると、幼い頃何度も子猫達を助けられずに泣いて帰った記憶が今頃昇華されたようでホンマに心もじんわり温かいわい。