パサッっ何かが落ちる音

最近話が上手な人の話を聞く事があって、本当に上手で惚れ惚れと感心した。私だったらあの、その、えっと、それで、みたいな感じでモゾモゾ話すのがやっとなのに、その人は話のつかみでグッと自分の話に聴衆を引き込んで、それで引き込んだだけあって話もめちゃくちゃ面白かったのだ。

 

今日は優秀係長が他部署宛の課長数名に一斉に送っているメールの文面を見て、それも見事なまとめ方と伝えたい事が簡潔に明白に迷いなく記されていて、ほわぁああ、と感心して何度も何度もそのメールを見てしまった。

 

私だったら変にへりくだり過ぎて本当に腹が下りそうなメールしか打てない。とりあえずそういうお話とかメールとか上手な人に出会うと頭のどこかに被さっていた何かが、パサッと落ちるような嬉しい気持ちになる。見えていない事が見えるようになった喜びというのか、私が知らない事を見せて貰えてる喜びというのだろうか。本を読んでいるとたまに感じるそういう感情を日常でも味わえるのは至福の時である。

 

そういう事で、私も話し方やメールの文章をマネしてみたりするのだ。学ぶとは真似る、って昔からよく聞くけどホンマにそうであるな。

 

ヘレン・ケラーとサリバン先生のお話でヘレンが、水とコップの違い、物にはそれぞれ名前があるという事を知るシーンを漫画で読んだ時、そのヘレンの気持ちがよく分かった。私は何かを理解する事が人より遅い子供であったので、それまで私の中で意味の無かった事が突然意味を持ったものである、と分かった時の衝撃を感じた時は、小躍りするほど嬉しかった記憶がそこそこあるのだ。

 

今も変わらず何かを知ることは多くて、その度に感動する。知らない事が多すぎてどうしようもないが。それに知らない事が多すぎると感じるのは若い時より今の方が多く感じる。若い時にもっと勉強しておけば良かった、と決まり文句があるが、その気持ちがよく分かる。年を経るのは登山して山の中腹以上にたどり着いた境地に似ている。全体が見えるようになってきて、自分の住んでる地上の大きさや登ってる山の高さを初めて知る。こんなに知らなかったのか、まだ、地上はあんなに大きくどこまでも広いのか、と地上では知りえなかった地上の大きさを認識する。

 

学者でも何でもない、むしろちょっと頭のネジが緩い私でもそう思うのだから、学者さん達は日々絶望してやしないだろうか。高い高い山に登れば登るほど知りたい事や知らない事がまだまだあると気がついて、うっへー、こりゃお手上げだ、ってなっちまいそう。それか逆にうわお!まだまだこんなに知らない事が!って、うへうへ喜んでいるかもしれないなあ。マゾだな。