猟犬のご馳走

ここの所調子がいまひとつだ。登山したいのに少し歩いただけで、グッタリとしてしまう。山と言えば私の育った家の裏は標高500mくらいの山があって、その頂上に観音様が祀られている。結構珍しいのではなかろうか。子供の頃見たあの100m?毎に置いてあるお地蔵様と観音様をもう一度見たいので、GW登って見よう。

 

子供の頃秋になるとそれはそれは大きな猟犬を数匹引き連れた猟師が山に登って猟をしていた。猟犬はあれはどんな種類の犬だったのだろう。おそらく沢山の大きな犬の血を混血させていたのか、大人になってからはあんな大きな犬は見た事がない。猟犬は放していてもどこかへ行くわけでもなく猟師に付きそって、うちの飼い犬がワンワン吠えてもチラともこちらを気にしないのだ。

 

ある時、キジを猟った漁師が木の棒をキジのお尻に突き刺し、腸やら何やら引きずり出し、猟犬にポイポイ投げて食べさせていた。大人になったから分かるがあれは腐りやすい内臓をすぐに取り出し肉の新鮮さを保つ為の処理だったのだろう。

 

小さな私はそれを気持ち悪いとも可哀想とも思わず、ただただ圧倒されて見ていた。猟犬はちぎれんばかりに尻尾を振っていたから、あれは猟犬にとってはご馳走だったのだろう。

 

しかしあの経験は私に強烈に残った。動物は食べられたり食べたりして生きている。食べられる側か食べる側かは紙一重。死ぬか死なぬかもスレスレの所で決まっているのかもしれない。

 

それにしても猟をする人も減り、あの大きな立派な猟犬達を見ることも無くなった。何だか少し寂しく思う。生きるためには何かの命を犠牲にしなければいけないという残酷さを知ったのはあの時だ。自分は何も奪わずに生きていると錯覚しないようにしよう。コントロールできないものはすぐそこにあるのだ。生死というものは本来そういうものなのだ。コントロールできていると錯覚していただけだ。コロナウイルスはあらためてそれを思い出させてくれたがな。ブルブル。怖し。