瞬間を記憶する

毎日毎日妹から、今日の推し、って事でセブンティーンの動画がLINEで送られて来るようになった。この前会った時私が少し興味があるように見せてしまったのがいけないのだろう。これ幸いとばかりに布教に走りに来た。熱心な信徒だ。

 

だがしかし、私は好きかも?と思ったディエイトとやらもやはり判別できなくなっている。平凡顔である故にむしろそれが特徴となっているちびっ子しか覚えていない。最近は何応援しているのかわからないけどちびっ子頑張れって、応援している。

 

応援といえば秋になると小学校とか中学校の時の運動会とか体育祭とかを思い出す。今でも秋の澄んだ青い空を見ていると、楽しかったそれらの事を思い出して、何かワクワクするのだ。そして次の瞬間ワクワクするイベントは何も無いことを思い出して、ちょっぴり寂しくなったりする。

 

田舎の運動会は地域の一大イベントみたいなところがあって、運動場に屋台まで出ていたのだ。高校になり、高校は体育祭に屋台がでなくて寂しいね、と同級生に話した所、フツー屋台のでる運動会なんて無い、との事でぶったまげたものだった。今は昔だ。小も中もすでに廃校となり当時の賑わいは過去のものだ。でもその時に刷り込まれた、秋の空へのワクワク感はいつになっても抜けきらないのだ。

 

最近廃墟めぐりとかしている人のTwitterとかフォローしていて、人類が滅びた後の世界を巡るのが趣味な人の気持ちが分かる。死ぬのと同様人類の文明も必ずいつか滅ぶのだ。滅んだ後の世界は誰も見る事ができない。だが廃墟は現在にいながら遠い人類の居なくなった未来を見せてくれる。もし、廃墟を見に行ったら、未来人になった気持ちになって、廃墟の過去の賑わいを思い出し、我、お涙頂戴ものの安いドラマや番組より遥かに滂沱の涙を流すだろうな。うお〜誰も居なくなってしまった〜ってなる。

 

同じように秋の空はワクワク感の後の、誰も居なくなってしまった感がすごい。運動会が終わった後に、屋台のおもちゃで買って貰った鉄砲をちびっ子がパンパン鳴らして、それが運動場にこだまする音もよく覚えている。その運動場にたった1人取り残されたような寂しさ、どれだけ待っても2度と戻ってこない時間、みたいな喪失感がある。

 

現在は未来から過去への一瞬の通過点でさえないよな。膨大な未来から膨大な過去へ流れていくその瞬間瞬間の記憶を留める記憶媒体として、立派に何とか色々覚えていよう。

 

という先からセブンティーンの名前と顔が覚えられないのは、記憶媒体の劣化としてまあ、しゃーなし、と思っておこう。